「人間のあらゆる努力とは、自由を増やそうとする努力にほかならない」(トルストイ 小説家)

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「人間のあらゆる努力とは、自由を増やそうとする努力にほかならない」(トルストイ 小説家)

 

 この言葉通り、僕らは本当は自由を求めているとする。

 

 かつて、飢えや、それに伴う死から自由であろうと、人々は必死に働いた。そうしなければ人々が生きていくための食糧生産が追い付かなかったからだ。

 

 しかし、今の僕らは、どうだろう。少なくとも、先進国に住む人々にとって、飢えは近くには無い。

 

 実際に現代において食糧生産に携わっている人は人口の2%に過ぎない。

 

 本来であれば残りの98%の人々、もしくは98%の時間は、人々は自由を謳歌していていいはずだ。

 

 しかし、実際はどうだろう。僕らは自由だろうか。

 

 テレビ、インターネットはもちろん、家族、友人、つまりは世間が僕らを良き消費者であることを強要する。

 

 新しい物を買え、隣と比べろ、人より良い暮らしをしろ、それが出来なくてもせめて人並みの暮らしをしろ、と。

 

 同時に多くの人は良き消費者であるためには良き労働者であることも強要される。なぜなら、人並みに暮らすには人並みに働かなくてはならないからだ。

 

 結果、僕らはもっと自由であっていいはずなのに、より稼ぎ、より使う事を強要され続けている。

 

「人間のあらゆる努力とは、自由を増やそうとする努力にほかならない」(トルストイ 小説家)

 

 ぼくらの努力は自由を増やしているだろうか、と考えてしまう。

 

 金を持っていれば自由に何でもできるという考え方もあるだろう。ならば世界の大富豪たちは誰よりも自由だろうか?

 

 彼らは、どこに行っても、誰と会っても、何をしても、評価され、批判される。多少の忖度はあるだろうが、あからさまに法を犯すようなこともできない。

 

 もちろん、金があれば、他人の自由を金で買うことはできるだろうが、それは他人の自由を奪うことで、逆に世界に存在する自由の総量を減少させる行為だ。

 

 僕らは本当はもっと自由になれるはずだ。本当に必要なモノだけを求め、本当に必要な分だけが稼ぎ、本当にやりたいことを見つければ。

 

 僕らは飢えからは自由になったが、消費と労働の牢獄に閉じ込められたままだ。