『これからのリッチライフに必要なのは、お金じゃなくて宝を掘り出す審美眼と労力である。』稲垣えみ子(アフロヘアの超節電生活者)
『これからのリッチライフに必要なのは、お金じゃなくて宝を掘り出す審美眼と労力である。』稲垣えみ子(アフロヘアの超節電生活者)
人間にとって宝さがしという行為が楽しくないわけがない。
人類の歴史600万年のほとんどは狩猟採集時代。人類が農耕を始めて小麦で7000年、稲作で5000年程度、農耕の期間を1万年と多めに見積もっても、せいぜい人類の歴史のたった600万年と比べれば、たったの600分の1。
人類の長い歴史からすれば、農耕など、最近、始まったと言っても過言ではない。
狩猟=釣り、ハンティングは今でも大きな娯楽だし、ゲームに釣りをしたり、モンスターをハンティングしたりするものが多いのも、それが人類の本能に訴える娯楽だからだ。
そして採集。これはそのまま宝さがしだ。熟した果実は期間限定のお宝だし、木の実や、キノコの群生は宝の山だ。
人類は長い狩猟採集生活の中で、宝さがしを楽しいと思うように本能に植え付けられている。
しかし農耕が始まって以降、人類の多くは、宝さがしから離れてしまった。楽しかった狩猟採集生活から離れ、鍬を持ち黙々と体を動かす、下の人間は指示を受けて黙々と働き、上の人間は他人を監督するという仕事を負わされた。
生きるためとはいえ、楽しかった狩猟採集は取り上げられ「労働」という苦役が課された。そして、人類は富を蓄積していった。
現代でも、人々は鍬を持つ手をマウスとキーボードに置いて黙々と「労働」をしている。しかし、とても幸せそうには見えない。
その上、先進国では経済成長は行き詰まっている。「労働」しても富が増えない時代がやってきたのだ。
頑張っても豊かになれるのはごく一部だ。富を独り占めしている人たちも幸福にはみえない。それはそうだ。今や他の人と比べてより多くの富を持っているかどうかが、豊かさのモノサシになってしまったのだから。
十分にものが行きわたってしまった社会では、富は他人に見せつけるだけのトロフィーに成り下がってしまった。
だから、僕はそんな競争からは降りてしまおうと思う。本当に必要な分だけ稼いだら、あとは本当に自分がやりたいことをやるんだ。
僕はただ必要なモノを買うだけの買い物は好きではないが、スーパーで半額シールが張られた商品の中から掘り出し物を探すのは大好きだ。
そうだ。それは宝さがしだから、楽しいのだ。